赤崁樓(せきかんろう、チーカンロウ、Chihkan Tower)は台南市内に位置し、台湾の激動の歴史を感じさせる観光地です。
見どころやアクセス方法、見学所要時間など詳しくご紹介します。
赤崁楼 Chihkan Tower
台南の中心部に位置する、赤崁楼(チーカンロウ、Chihkan Tower)。
もともとはオランダ統治時代の1653年に築かれた要塞「プロヴィンティア城(紅毛城)」でしたが、1661年に明の鄭成功によって奪還され、その後、清朝時代に改築されました。
歴史の変遷を感じさせる現在の建物は1862年の震災後、清朝時代に再建されたもの。
赤レンガ造りの堅固な城壁や基台は、当時の雰囲気を今に伝えています。
オランダ、鄭氏台湾、清朝、日本統治時代、台湾へ。
時代とともにその姿も変わりゆく、赤崁楼の歴史を辿ってみましょう。
見どころ
見どころは中庭の鄭成功和議の像、御贔屓牌、清朝時代の中国様式建築の海神廟と文昌閣、オランダ時代の赤レンガ城壁跡。
建物内は展示室となっており、赤崁楼の修復を主導した日本人に関しての当時の資料も展示されています。
贔屓の碑
亀ではなく龍の子、贔屓(ビーシー)が石碑を支える御贔屓牌。
清朝の1786年、台湾で「林爽文事件」が発生。
事態を早期に収束させた陝甘総督の福康安に対し、乾隆帝が自ら筆を執って5篇の詩文を書き、満州文と漢文で石碑を刻ませて贈ったものとされます。
ここに彫られている龍には足の爪が5本あり、当時5本の爪を持つ龍は皇帝だけが使える龍の図案だったことからもこの碑の貴重さが分かります。
地元の方に聞いた話によると、10匹のうち1匹の贔屓が大陸から運ばれている途中で逃げ出し、台南の保安宮で匿われている伝説があるのだとか。
(実際に保安宮に行ってみたところ、確かに1匹の贔屓が祀られている姿を拝めました。)
海神廟
清朝時代の1875年、牡丹社事件によって台湾を防衛する命を受けた沈葆楨が、海神の庇護に感謝するために建立した海神廟。
プロヴィンシア城の南西の稜堡上に位置しています。
内部は展示室となっており、かつての様々な様式の船の模型や、台江地区の移り変わりを示した図などが展示されています。
オランダ統治時代の台江地区を表す地図。
台江湾を挾み、プロヴィンティア城と安平のゼーランディア城が相対しているのが見て取れます。
プロヴィンティア城の復元模型。
建物は四角型で台座は3つ。
主砦と東北及び西南に面した場所にそれぞれ1か所ずつ稜堡があり、防衛機能を持たせるために菱形の構造をしています。
鄭成功の絵と扁額。
修復前の建物装飾。
赤崁楼の修復工事概要。
戦時中にも関わらず、日本統治時代の最後の台南市長、羽鳥又男(はとりまたお)氏の尽力により、赤崁楼の修復は行われました。
二階からの眺望。
文昌閣
プロヴィンシア城主砦の基礎の上に建てられた文昌閣。
1886年、台湾知県(県知事に相当する)沈受謙によって教育振興のために建立されました。
海神廟と同じく「歌山重答頂」という建築様式の文昌閣は、海神廟と共に赤鼓楼の優美なイメージを形作っています。
1階は文化財展示室、2階には道教における試験の神、魁星爺が祀られています。
建物前の欄干の上には、清朝時代の19世紀に設置された12体の獅子の姿も。
魁星爺はかつて科挙の時代における試験の神であり、今日では試験合格を祈願する信仰の対象となっています。
魁星は北斗七星を自然崇拝したもので、鬼の形相をして右手には辰砂の筆、左手には墨床を握り、右足で大亀の頭を踏みつけ、左足で星を蹴る姿をしています。
眼下には北東側稜堡の遺跡。
プロヴィンティア城の正門
プロヴィンシア城の正門は、日本統治時代の1944年、修復作業の際に発見されました。
現在はレンガの壁でふさがれているものの、暗がりの中でかつての階段の痕跡を目の当たりにすることができ、その場に立つことで時代を超えた歴史の重みを感じることができるでしょう
プロヴィンティア城の遺跡
敷地の北東側の旧稜堡。
積み重ねられたレンガ造りの壁の材質と壁の厚さから、プロヴィンティア城の堅固な造りが感じ取れます。
赤崁楼主砦の遺跡
蓬壺書院から文昌閣に上がる石段から、主砦の遺跡を見ることができます。
城壁は砂糖水、もち米汁、カキ殻の灰を調合した接合材を使い、赤レンガを積み上げて厚く堅牢に作られています。
瓶形の門
海神廟後方の壁にある瓶型の門。
ウサギと芭蕉の葉の図案は、玉兎東昇(長寿と子孫繁栄)を象徴する縁起物とされています。
竹の欄干。
鄭成功和議の像
中庭の一角にそびえる鄭成功和議の像。
1661年、ゼーランディア城を包囲攻撃した鄭成功が、オランダ軍を降伏させた様子を描いています。
赤崁楼の歴史概要・年表
1653年 | オランダ人と漢人が衝突した「郭懐一事件」が発生。オランダ人が赤崁に城堡を建築し防御の拠点となり、商業と行政の中心として「プロヴィンティア城(普羅民遮城)」と名付けられる。 漢人からは通称「紅毛城」または「番仔楼」、後に「赤崁楼」と呼ばれた。 |
1661年 | 明の鄭成功がゼーランディア城を陥落させてオランダ軍を駆逐。 プロヴィンティア城が東都承天府と改められたのもつかの間、鄭成功は亡くなり台湾は清国の支配下に入る。赤崁楼は次第に荒廃していく。 |
1862年 | 台湾中南部の大地震により、すでに損害していた赤崁楼のオランダ建築は全て倒壊。 |
1875年 | 沈葆楨が牡丹社事件の際に軍を率いて来台。 航行の安全を祈って、赤崁楼遺跡に海神を祀る廟の建築を願い出たが、事情により未完成のままとなった。 |
1886年 | 台湾の沈受謙知事が文化教育振興のため赤崁楼西側に「蓬壷書院」を建設。 残っていた砦の土台に「文昌閣」と「五子祠」を建立。同時に海神廟も修復した。 |
1895年 | 日本による統治が始まる。赤崁楼は「陸軍衛生医院」に変更された。 |
1944年 | 日本人によるオランダ城堡遺跡の修築、大士殿の解体と海神廟、文昌閣、蓬壷書院ホールの修繕が行われた。 |
1960年 | 元大南門城内にあった御贔屓碑座を赤崁楼台座南側に移転。 |
1965年 | 赤崁楼を修築し、海神廟と文昌閣の主な木造を鉄筋コンクリートに改造。 柱や梁には木製を模造したものが使用され、文昌閣の赤崁楼側の出入口は民族路に移された。 |
1983年 | 内政部より国定古跡として指定される。 |
見学所要時間
建物内の展示物はそれほど多くないため、建物外観や城壁の遺跡、中庭などの見学を含め、所要時間は1時間ほど見ておけば良いかと思います。
敷地内のショップでは、台湾の英雄である鄭成功が描かれた鄭成功チップスと鄭成功ビールがお土産として人気です。
赤崁樓の行き方・アクセス方法
台鉄台南駅より徒歩約17分。
バス便:台鉄台南駅前バス乗り場、台南火車站(北站)より3、5番バス乗車「赤崁樓」停下車すぐ。
赤崁樓の営業時間
住所:No. 212, Section 2, Minzu Road, West Central District, Tainan City, 台湾 700
電話番号:+886 6 220 5647
営業時間:8時30分~21時30分
定休日:なし