1931年、夏の甲子園。
決勝戦の舞台に立ったのは、台湾代表校の嘉義農林。
嘉義農林野球部の監督は、かつて強豪校を甲子園に導いた日本人。
選手は台湾原住民、漢人、日本人の混成チーム。
2015年には『KANO 1931海の向こうの甲子園』として映画化されました。
映画の舞台&嘉義農林ゆかりの地を、歩いて巡ります。
1931 嘉義農林
戦前の夏の甲子園(全国中等学校優勝野球大会)。
当時日本の統治下にあった満州、朝鮮、台湾からも大会に出場していました。
台湾の中学校は1923年の第9回大会から甲子園に参加。
台湾の初出場から8年連続で本大会に勝ち上がったのは、台湾北部の中学校(台北一中、台北商、台北工)です。
1931年、愛媛の名門松山商業で甲子園に導いた近藤兵太郎が台湾南部の嘉義農林の監督に就任。
台湾人、漢人、日本人の混成チームは台南や台北の強豪校を破り、台湾大会を勝ち抜いて甲子園に初出場します。
嘉義農林は初戦の神奈川商工戦を皮切りに連勝を重ね、決勝へ進出。
惜しくも決勝戦で中京商に破れるものの、「KANO」の名を全国に轟かせます。
台湾鉄道 嘉義車站
嘉義の入り口となる、台湾鉄道の嘉義駅へ。
映画では、甲子園の数年後に徴兵された札幌商の錠者選手(第二戦の対戦投手)が「嘉義を見たい」と発し、嘉義駅で降りるシーンがあります。
この話は、若干脚色されています(実際には、錠者は台湾に来ていない)。
しかし、北海道代表校のエース投手から二桁得点を奪いKOした対戦相手、「嘉義農林が生まれ育った嘉義を見たかった」というのは、本当なのではないでしょうか。
もちろん、ご本人の言葉を聞くことは叶いませんが、そんなことを思いながら嘉義のプラットフォームに降り立つと、得も言われぬ感慨深いものがあるはずです。
中央噴水池
スクリーンの中でも幾度と登場する、嘉義市の円形広場。
現在も当時の面影を若干残すかのような大きさで、同じ場所にあります。
光に照らされてきらきらと輝く噴水のしぶきの向こうには、嘉義農業のエース投手 呉明捷の像。
躍動感溢れる、呉明捷投手のピッチングフォームを目に焼き付けて。
檜意森活村
阿里山林業開発に従事していた人々の官舎をリノベーションした施設、檜意森活村。
この一角に、映画の中で「近藤兵太郎監督の自宅」としてロケ地になった建物があり、内部には嘉義農林野球部や映画KANOにまつわる展示品があります。
玄関にふわりと吹きこむ心地よい風とともに、映画のワンシーンが蘇ります。
お土産品の販売もあり、紺色の「KANO Tシャツ」を1枚買いました。
現地に来た記念に、ぜひ。
嘉義市立野球場
1918年、日本統治下に誕生した嘉義公園球場を前身とする、嘉義市立棒球場。
この球場を台湾プロ野球(CPBL)の本拠地とする球団はありませんが、ナイターの照明も完備しており、時折公式戦が行われる立派な球場です。
嘉義市立野球場の6番ゲート前には、1931年夏の甲子園決勝カードのスコアボードと打順が掲載されています。
1.左 平野保郎(羅保農):原住民
2.中 蘇正生:漢人
3.遊 上松耕一(陳耕元):原住民
4.投 呉明捷:漢人
5.捕 東和一(藍徳和):原住民
6.三 真山卯一(拓弘山):原住民
7.一 小里初雄:日本人
8.二 川元信男:日本人
9.右 福島又男:日本人
嘉義農林の野球部監督に就任した近藤兵太郎監督は、「脚の速い台湾原住民」「打撃の強い漢人」「守備の巧みな日本人」の特性を上手く活かしました。
そのことは、打順・守備位置を見てみると、より伝わってきます。
上位打線は台湾原住民と漢人の選手で固められており、下位打線の7、8、9番は日本人です。
興味深いのは、第二戦の札幌商戦で「甲子園史上 アジア人で最初のフェンス直撃打」を放った強打の蘇選手を2番に置いている点。
昨今、メジャーリーグだけでなく日本でも採用されつつある「2番最強説」を、当時から採用している。
(蘇選手は全試合で2番を任されています)
甲子園決勝の対戦相手は中京商。
野球ファンの方はピンときているかもしれません、名だたる野球選手を排出してきた中京大中京です。
現時点において、甲子園の通算勝利数・春夏通算優勝回数、夏優勝回数が最も多い野球部を相手に。
決勝のスコアは0-4。
強豪を相手に、見事な戦いぶり。
嘉義農林のあった場所
さいごに。
かつて甲子園で旋風を巻き起こした嘉義農林の校舎があった場所はどこなのか。
嘉義農林の選手たちが通学時に見た景色を思い浮かべながら、立ち寄ってみましょう。
その場所は、嘉義市立野球場の近くにある国立嘉義高級商業職業学校。
赤煉瓦の立派な校舎の外側には、「KANO歩道」の名の下に、嘉義農林野球部の功績を示すパネルが展示されていました。
台湾予選の決勝、台北商戦のスコアボード。
11-10。
1931年8月13日、甲子園大会の開会式。
1931年、嘉義農林野球部の写真とオーダー。
1931年8月5日。
甲子園へ向かうために基隆港を出発する嘉義農林野球部のメンバー。
「海の向こうの甲子園」へ。
1931年8月22日。
決勝戦翌日の朝日新聞。
「嘉義農林力つき敗る」
下記リンク(台湾棒球WiKi)には、嘉義農林野球部の各選手の打撃成績・投球成績が記されています。
KANOファンの方は、これだけでご飯三杯は食べられるかもしれません。
おわりに
この映画に日本人として感情が湧き上がるのは、甲子園で土を踏んだ彼らが、近い将来に散り散りになり、どのような運命を歩んだのか。
その史実を知っているからでしょう。
映画『KANO』をご覧になっていない方は、ぜひ映画をご覧いただき。
まだ嘉義を訪れていない方は、ぜひ、嘉義へ。
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